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勇患列伝

越後 勝さん(仮名) 60歳 男性 大動脈弁置換術

心臓の手術は危険だ。患者も受けたくないが医者もとりたてて必要でなければやりたくはない。心臓は幸い、その挙動が数値化できるほどに客観的である。大動脈弁が硬くなって狭くなっている大動脈弁狭窄症では圧格差といって、どれだけ血流が左心室を出るときに妨害を受けているか、心臓超音波検査をすれば数字ですぐにわかる。この数値が50(mmHg)を超えていれば手術を考えるべきだとされている。だが心臓の雑音はありありとあるし、大動脈弁も見た目は明らかに硬くなっている。それでも圧格差の数値が30mmHgだと「すぐに手術しましょう!」と判断することできない。医療行為は医学と言うルールに従うことで成り立っている。本当にそれが正しいかどうかわからないけれども、従わなければならないのがルールだ。
 ここで紹介する患者さんはそういった事情で手術が結果的には5年も延期されてしまったケースである。その間のいろいろな思いに患者さんは耐えてきた。そして文末にあるように、そういった期間も必要なものであったと述懐していただいている。

「人生を決めるのは、運命ではなく、自身の選択だ」
心臓の手術(大動脈弁狭窄症)に立ち向かう私の背中をドンと強く押してくれた言葉が、二つあった。
初文は、その中の一つ。これは大和成和病院、南淵明宏先生の著書だったか、コラムだったかで私が出遭った言葉で、その時、私の心を動かした忘れられない「命文」なのだ。
 ここで、私の手術に至るまでを概要紹介する。
「45歳位の検診で「あなたに心雑音」があります」と地元の医師に所見をいただいた。
無知な私は何の気負いも感じなかった。毎年検診を受けていた「人間ドッグ」その度、心雑音がチェックされつづけていたが自覚症状はなく、医師先生からも「特に気にすることはありません」‥‥・と。だが50歳を少し過ぎた頃、医師先生が「一度、精密検査をうけてみましょうか」‥‥・と。雰囲気が一歩前進?した。
 この指示で、私は総合病院の循環器科を訪ねて診察を受けたことから、私の心臓病との戦いが始まった。
 通院をつづけて、後のカテーテル(右大腿部)で「大動脈弁閉塞不全症」と説明された。
だが当時私にはこの病の自覚症状というもの何も体験できていなかった。
 仕事は事務系管理職だったが、もともとインドア派。体を動かすときは特に制限もせずに、平々凡々と暮らしていた。ところがある時に異変を感じた。
 いつものように、休日、家での野良仕事に精を出していた。2~3時間動きつづけると全身に疲れを感じるようになった。。既に何年も服用していた循環器内科医からの投薬。 心臓への負担をかけまいと気配りながら、隔月毎の外来診療を7年位つづけていた。 
 61歳頃、通い続けた医師に「弁置換術」を勧められた。ついに来るべき時が来たのか‥‥・と。愕然とした私が、走った行動がセカンドオピニオンだった。あの時の気分はドン底だった。
 セカンドオピニオンの医師は92歳の私の母が倒れた時、命を授けて下さった医師。(母はそれから元気になり後々、7年も生かされて99歳近くに没)当時、母の看病で仕事帰り毎日立ち寄った私。私はこのK先生に色々な面で心開けて信頼していた。
 しかし、駆け付けたK先生の検査結果もほぼ同じ見立だった。「手術期として考えることは間違っていない」が「急いで手術をするまでにいってない。しかし弁置換術をすれば体が楽になる」・・・とか云々。
 迷いに迷った私。こんな病歴を手にもって今から5年前2004年5月19日「縁」あって遠く越後上越から大和成和病院、南淵明宏先生の初診をうけた次第。
 大変手厚いご丁寧なそして礼儀正しい挨拶を受けたことは(お医者さまでも、こんな頭の低い方がおられるんだな‥‥と思った)今も忘れられない。この時の面談で入院日(6月17日)手術日(6月24日)が定まり、一旦は新潟へ戻った。さあ‥‥・。手術へのプレパレィションをこの短期間に‥‥。ととりかかった。この間、小さな肉体に秘めてある私の魂は声をあげて炸裂していた。もともと優しくて肝の小さい男ですから。しかし手術からは、なぜか、目を背けようとはしなかった(怖さを越えての開き直りでした)。
 私は手術の怖さより、生かされてその後は、どんな生活が、営めるのか、どう生きていけるのか‥‥・云々それは、それは
心配と不安がつきないのです。そしてやっぱり怖さのくり返し。隠れ泣きをした時もありました。「人生を決めるのは、運命ではなく自身の選択だ」と南淵先生。
 二つ目の勇気は循環器内科医、セカンドオピニオンのK先生が、私に「手術は生きるためにする。生きたくないのか‥‥」と。このふたつが弱い私を支えてくれた総てでした。
 さて、愈々手術にむけて出発の時、心かき乱れて複雑きわまりない心境。「家をおもったり、女房が不便におもえて、子供のように小さくかんじたり、愛しかったり」理不尽な自分を一人で責めた。何もかも可哀想で申し訳ない気持ちがいっぱいになった。「この俺がもし居なくても、生きていってくれるだろうか‥‥大丈夫か」‥‥。最後は「神さま、仏さま、何としてもお守りください‥‥」と。こんな時、二人の娘達が頼もしく思えたものでした。<小さな声で記しますが>遺言まで書こう、書こうと思ってはいましたが、何だか死に行くような、とてもいやな気持ちでのこそうとは‥‥。できませんでした。
幾重にも襲う恐怖、私はただ「死ぬわけには、いかないどうしても生きたい‥‥と。」生還だけ念じた。
 大和成和病院の南淵明宏先生にコンタクトしてくれたのが私の二女。彼女は「日本福祉教育専門学校」に勤務。成和病院とのご縁のはじまりでした。
 2004年6月17日入院、手術にそなえて色々な検診を受けた。結果説明と手術への承諾書等のため6月22日夕食時南淵先生との面談。24日の執刀を直前に先生から告げられたことは、考えてもみなかったことだった。
 「今、手術のときではない、先へ延期したい(しばらく様子を精査したい)」と南淵先生。次に「私の心臓はまだ使える。手術の域に達していない。」明日新潟に帰れ‥‥とおっしゃる。
 その場は気持ちの整理が整ったはず私は猛然とした態度で反発した。「どうしても手術をして下さい」と強く意志を表じた。
 あの悩みや恐怖自分との葛藤からやっとここへ来たのだ。勝手な言分でした。頑張る私のうしろにいた妻が小さな声で「あなた、何言ってるの。帰りましょう‥‥」。と、娘も私の尻を指でつついていた。
出された南淵先生の指示は「6ヶ毎に外来診察に来れますか」と云われ約束した。入院小荷物を抱えて病院を出た時、何か晴々れとはしなかったが安堵に包まれた。
 その後から6ヶ月毎の大和成和病院への外来通院が始まり回を重ねる毎に信頼が深まって先生にお会い出来る機会が楽しみである一方、いつ腕を捕まえられるのか「手術宣告」には耐えず脅えていたのである。
新潟の循環器内科K先生への2ヶ月毎の受診も並行して相互の病院の伝言役を果たしていた。
 こうした型が5年を経過、今回6月22日の手術となった。今大成を果たして戴き晴々とした新たな気持ちで日々を迎えている。
 昨年の秋、十一月大和成和病院の検査時、南淵先生に「来春早々に手術をしようか」と云われた。私は雪どけの春を心静かに待った。私にとってこの五年間は必要な期間だったようだ。
 2009年6月18日入院6月22日手術。
 今、再びいただいた「新しい命」この命は決して私だけの命ではないのです。大勢の人に助けられ繋がれてきた大切な命なのです。これからの人生を格別な思いで生きてゆきたい。

平成21年7月11日 南淵明宏

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