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勇患列伝

谷山ネコさん(仮名) 35歳 女性 冠状動脈バイパス手術

ネコじゃら市の市長はかつて猫田ネコ氏だったということだが、いかにもネコらしい名前の猫田ネコ氏は実はタヌキであったと聞く。谷山ネコさんもネコと言う名前なのに人間だった。しかも三児の母で、主婦で、管理栄養士として、人間界にどっぷりつかっている人間そのもの、という御仁であった。彼女の冠状動脈は方々で激しい石灰化を示し、主要なルートは閉塞していた。原因は全く不明だ。このように、我々の人生とはけっこうやばい。何の理由もなく、何の前触れもなく、突然病魔が襲ってくる。
冠動脈がつまって心筋梗塞になった人を誰もが「いろいろとリスクがあったんでしょ?遺伝とかコレステロールが高いとか、不摂生とか・・・」などと考える。いやなんとしてでもそう考えようとする。そうでないと困るからだ。特別な人が病気になるのでなければ都合が悪いからだ。
ネコさんの冠状動脈バイパス手術では四箇所の冠状動脈にバイパス血管をつないだ。「このバイパスは私が死んでも流れ続けるバイパス・・・」との思いで手術を終えた。
私は彼女に体験記をお願いした。
 手術で起こるかもしれない、「もしも」については何も考えなかったと言う。不都合な事態を心配しても状況は好転しない。考えても仕方がないと彼女の深層心理は判断したのだろう。だが「手術のリスクをしっかり理解しない患者」という一面が浮き彫りになった。心臓手術の前は少なくとも執刀医はものすごく心配する。心臓手術では理不尽な合併症が突然地震のようになんの前触れもなく発生し、患者の期待も執刀医の執念も、すべてを破壊し尽くしてしまうことが稀にあるからだ。だから患者も家族も執刀医と同じく、手術の前の日は心配して欲しい。そして何も心配なことが起こらず、大成功に終わったときの勝利の喜びを最大限にかみ締めて欲しいのだ。
だが待てよ、心臓外科医はプロである。プロの心のうちを、素人である依頼者に共用して欲しい、などと願うのはかっこ悪いのではないだろうか。ネコさんの体験記を読んでそんなことをいろいろと考えた。

冠状動脈バイパス手術体験記 谷山ネコ

私の頭の中に南淵先生の名前が刻まれたのは今から8年前。
テレビで「スーパードクター」だとか「神の手」だとか「ドラマのモデルになったり」とかで強烈な印象を受けました。
結婚間もない私は主人と「いつか心臓手術を受ける事になったら絶対南淵先生にお願いしよう」と言ってたものでした。
それからわずか8年後に心臓、しかも先生が得意とするバイパス手術を受ける事になろうとは夢にも思いませんでした。しかもこの時私には6歳4歳2歳の子供までいたのです。

最初に訪れたのは自宅近くの大学病院でした。
内科で分かる範囲では心臓に異常は見られない、と言う事で循環器科へ回されました。
そこでようやく3本中2本の冠動脈が詰まっていると宣告されたのでした。
私は事の重大さを飲み込めずこの時点ではまだ薬でなおらないかナ、ステントになるかナ、程度の気持ちでした。カテーテル検査の結果、バイパス手術が最も望ましいとの事。
そしてこうも言いました。
「難しい手術になるので当院外科チームとも相談し場合によっては本院の教授にお願いする事になるかも」と。
事態は急変しました。

本院の教授という方をインターネットで調べもしました。
きっと優秀であろうその先生に、何故か私は私の心臓をお任せする気にはなれずパソコンの画面をじっと見つめていました。そこでふと南淵先生の名前を思い出したのです。早速HPを検索し全てのページを熟読しました。
先生にお願いしよう!!

とても忙しい先生だから受けてもらえないかもしれない。今受診している病院から紹介状を書いてもらえないかもしれない。様々な思いがよぎりましたが行くだけ言ってみようと思いました。
もちろん先生の外来日に当てて。
幸いにも話は思う様に進み2009年6月26日、外来の日をむかえました。
自分の抱えている病気の重大性などそっちのけで私と主人はまるで芸能人に会いに行くようなミーハー心で向かっていたのを覚えています。

診察室での最初の会話は病気のことではなく私の名前。ネコと言う名前を誉めて下さり一気に緊張が解けました。それにしても先生が猫派で私の名前がネコで良かった。イヌじゃなくて。そこでもう不思議な安心感が生まれました。
皆さんが相当な覚悟でこの病院にたどりつく事が多い中私には全く死ぬ覚悟ができてなかったんだと思います。
死を想像できなかったのかも知れません。

「私には小さな子供が3人もいる。私は生きなきゃいけない!」  

私のメッセージを先生は受け取ってくれた様に思いました。

手術を受けるその朝まで“もしも”の事は考えず過ごしてきました。
やはり死ぬ覚悟ができず死を想像できませんでした。思うのは子供達との未来。
親の思い、主人の思い、子供の思い、友の思い・・・
たくさんの思いに支えられ私は生かされているんだ、と改めて感じた今回の手術でした。
先生、スタッフ、含め皆さんに感謝!!!

手術の怖さは心臓外科医が一番よく知っている。数多くの惨事を目の前で経験しているからだ。何事もなく終わったはずの心臓手術で、突然肺から出血して溺れるように亡くなった方もいた。どういうわけか手術直後から膿がどんどん流れ出した患者もいた。幾度となく経験しているのは、術後しばらくして腸や肝臓が全く機能していないことを知らされるケースだ。血糖が異常に低下し、ブドウ糖をいくら追加しても追いつかない。だが心臓は皮肉なことに必要以上に激しく鼓動し、心臓の部分に限った手術の成功を鼓舞している。そして全身がはれ上がり死亡する。そんな皮肉な状況、多臓不全という事態以上の惨事はめったには起こらない。だが今日の手術で起こるかも知れない。大多数の患者には「まあ、ありえないでしょう」との説明がそのとおりになる。だが起こってしまった患者では、百発百中の確率だったということになる。
心臓外科医の一生消えない心のキズについていくら患者に説明しても、患者は理解しない。患者にとっての不都合な事実でもあり、感性が悟性を拒絶するのだろう。
では手術が終わり、その結果期待を大きく裏切られた患者家族と執刀医の両者は目の前の事態をどう受け入れるのか? 
心臓外科手術とは、人体というまだまだ未知の領域に「大部分の患者で大丈夫なのだからやってみよう」と考えられる最大限の侵襲を加える猟奇的行為なのだ。
こんな危険な心臓手術を現代社会はもう許容するべきではないのかも知れない。つまり一切の心臓外科手術を人類は放棄するべきなのかも知れない。
にもかかわらず、「医療医学は日進月歩」「助からない病気などほぼない」と社会は信じたがる。わが身が危険に晒された状況では、無理からぬ心理状態だろう。だがそんなふうに心臓外科手術の猟奇性を社会が全く理解していない、いやしたがらない状況なのに、心臓外科医は今日も大胆に患者の運命の扉を開く。何が待っているのか、知る術はないにもかかわらず。
こういった状況は心臓外科医だけではないかも知れない。
社会から専門家とその職域の専門性を認められ、期待されている分野のプロフェッショナルに共通していえること。
それは、専門家、プロフェッショナルとは、その領域に横たわる理不尽や不合理を、社会一般の人々に成り代わり、全部背負って生きている人のことである。

■設問
傍線部、感性が悟性を拒絶するのであろう。 をより詳しく説明する文章として正しいものは次のうちどれか?
(  ) 手術を控え少なからず動揺している患者の感性は混沌としており、理屈で状況を理解する余裕はなく、悟性の働く余地はない。
(  ) 感性とはもともと自己の利益に希望的に誘導される性質があり、手術で不都合なことが起こるなどと言うことを受け付けない性質を根本的に備えている。従って合理的な理解、すなわち悟性の関与、または制御できる余地はない。
(  ) この場合「感性」とは医学知識のない患者を意味し、悟性とは執刀医を意味する。医者の説明を患者は常に理解しないと言う意味。
(  ) この場合「感性」とは稀に経験した惨事を常に心のキズとして持っている執刀医側のトラウマに基く感情のモノローグであり、そういった説明は合理性を欠き、患者の合理的理解を得られるはずはないものである。

平成21年7月30日 南淵明宏

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