トップ勇患列伝 > 勇患列伝 その12 涅槃寂静編
勇患列伝

鈴木恵美子さん(仮名) 80歳代 女性 僧帽弁形成術、冠状動脈バイパス手術

カルテには「T.14」とある。
患者さんは大正14年生まれなのだ。
「そんなにお年寄りだったのか」
学校の教師だったという鈴木恵美子さんは80を超える高齢の患者だった。
手術が終わったICUで改めて気が付いた。
鈴木さんには10年前、冠状動脈バイパス手術をやらせていただいた。
正面の左前下行枝という血管だけにバイパスする手術だった。
そういうわけで、付き合いが長いから、もう一度手術をすることになっても、年齢など意識しないまま、手術に突入したのだろう。
鈴木さんは大変に美人だったはずだ。今でも大変に美人であらせられる。
10年前の手術のあと、鈴木さんは調子がよかった。
10年間、たまに外来に元気な顔を見せてくれた。だが今年になって息切れがするようになった。
理由ははっきりしていた。僧帽弁に激しい逆流が起こっていた。数年前からわかっていたのだが、「症状がないから」という理由で様子を見ていた。
入院して心臓カテーテル検査を受けてもらった。
すると手術をしなかった、残りの冠状動脈すべてもボロボロになっていた。
僧帽弁と冠状動脈を全部同時に修繕するよい機会だと思った。
だがリスクもある。信頼してくれる鈴木さんを自分の手であの世に送るなどということは絶対にしたくない。
手術の必要性を説明すると、鈴木さんは「はいわかりました」と二つ返事で納得した。
自分の中で考えたり迷ったりした様子はなかった。一点の曇りもない、という印象だった。これは正直言って、思案でも判断でもない。ただただ従順であった、というだけのことだ。
「信じてますから」
そう彼女は言った。
それでいいのだろうか?
彼女が信じている、いや信じようとしているのは何なのだろう?
執刀医の技量だろうか?いくら執刀医が完璧な手術を行ったとしても、結果がいいとは限らない。キズ口にばい菌が感染したり、人工心肺がもとで脳梗塞や腸管壊死が起こって死んでしまうかもしれない。だから執刀医の技量を信じても仕方がないのだ。信じるべきは自分の運命だろう。あるいは執刀医の「運」だろう。
「何を信じるのですか?」と聞いてみた。
野暮な質問だった。
「センセイのことを信じていますから」
私の誠意なのだろうか。私が「誠意を持ってちゃんとやる」ということを信じていただいている、ということ理解することにした。
なるほど、結果は悪くてもちゃんとやりさえすればいいのか。
そういうことなのか、ならば気はらくだ、全力を出し切ろう、と自分に言い聞かせた。
だが考えてみると患者にできることと言えば、医者を信じることしかない。それ以外に患者は何もできない。だから鈴木さんはそう言ったのだ。
いや、鈴木さんはそう「言いたかった」のだ。
医者は何事も理屈で考えようとする。
北海道にジェット機で出張する際、母親は息子である私に
「気いつけていきなはれや」
と言う。だが私は母親のこの非論理的な発言に対して
「ボクが自分でジェット機を操縦するわけやあらへんのに、どない気いつけぇ言うねん!」
と反論する。
男の思考は常に一直線だ。一つ一つ理屈を乗り越えないと、前には進まない。時間も一方向にしか進まない。
一方、女性の思考は多次的だ。空間も時間も容赦なく乗り越える。女性の言葉は壮大な感性からほとばしり出た音に過ぎない。一方、男性にとって言葉は「音にした記号」でしかないのである。
そう考えると
「信じていますから」
をそのまま字面(じづら)のとおりに受け取ってはならないのだ。
彼女が伝えたかったこと、それは言葉の字面にあらわされているのではない。
感謝と信頼と、ひょっとしたら愛情みたいなものの塊がたまたまある瞬間に言葉となった、と理解すべきなのだろう。
つまり鈴木さんの言葉を男性的に論理的に翻訳すれば、
「お互い、利害が一致した、味方どうしなんですよね」
と言うことになるのだろう。
お互いがお互いを信頼し、尊敬し、手術と言うプロジェクトを共同で進める。
人類が小集団で生活していた頃、他人は敵か味方の二種類だった。
敵ならば簒奪をつくす。
味方ならば収穫を共有し、助け合い、護りあう。
そういう人間同士の単純で基本的な関係を鈴木さんは
「信じてますから」
と言う言葉で改めて宣言したのだろう。

手術は大仕事だった。
鈴木さんの冠状動脈は細かった。心臓表面に浮き出た六箇所の部分にバイパスをつないだ。つないだ場所では、内腔の直径がどれも一ミリ程度と飛び切り細かった。そして僧帽弁も修復した。
予定していた手術の内容が終了し、心臓が動き出した。心臓の表面にはつないだバイパス・グラフトが縦横に走っている。惚れ惚れする美しさだ。どの縫い目も美しい。私の心の中に達成感が湧き上がった。
人工心肺を担当した臨床工学技師に心臓を停止していた時間を尋ねると、なんと3時間2分。それは長大なものだった。バッド・ニュースである。ここ数年来、そう、21世紀になって、私は心臓の手術で3時間以上、心臓を停止したことはなかった。
だが目の前の鈴木さんの心臓はそんな私のプライドに基く些細な「こだわり」など全く気にしていない。元気に拍動している。現実をポジティブに許容する力はまさに女性的である。

手術のあと、鈴木さんは順調に回復した。心配していた脳梗塞も腸管壊死も起こらなかった。本当にうれしかった。
普段は術後が成功した元気な患者さんを見ても、純粋にうれしく思えない自分がいる。うれしく思うより、「はあ、よかった、何も起こらなくて」というほっとする気持ちの方が絶大だからだ。
私は世界で一番臆病な心臓外科医だと思う。だから高度でも最先端でもない普通の手術ができればといつも念じている。そして手術を前に、怖くて怖くて仕方がない。手術中に大動脈が裂けるかもしれない。大惨事が突然起こって患者さんが死んでしまうかもしれない。「悪気はなかった、一生懸命やった」といくら説明しても、憎憎しい大学教授連中から、人殺と指弾され、警察に逮捕されるかも知れない。
そして、そんなふうに自分の事ばかり考えている。
自分かわいさゆえの恐怖である。そんな私は大概の場合、自分が執刀した患者が元気に回復するのを見て、
「ああ、今日も人殺しにならなくてよかった・・・」
と胸をなでおろす。そんな日常である。
マイナスを想定し、何とかマイナスにならずに、ゼロのところで停まっていてくれた。
そう言った喜びである。

だがたまに鈴木さんのようなことがある。
手術が成功して、うれしさがこみ上げてくる気持ちになる。
強い親近感、いや親密感と言えるかも知れない。つまり「身内」という意識だろうか。
鈴木さんと私の頭の中に潜んでいる太古の感性が、そう判断したのではないだろうか。同じ環濠集落で暮らし、その中で同様に一生を終える共同社会の一員同士、と双方向で認識したのだ。
気の遠くなるほどの時間、われわれの祖先はこの地で暮らしてきた。その間に起こった数多の出来事は悟性の世界から感性の世界へと沈み込み、沈殿しているのだろう。物質本位の科学で言うとDNAだろうか、他の細胞質の何かによってなのだろうか。水分子が無限に形成するクラスターの形状が記憶や意識の元になっているのかも知れない。
どのようにかして、祖先の時代に築かれた係累の絆は何らかの形でわれわれの中に刻み込まれているにちがいない。
われわれの知らないところで、われわれは互いに累(つな)がっている。
だからわれわれは一生で、多くの人たちに助けてもらえるのだろう。

■設問
本文末尾の下線部太字、そんなふうに自分の事ばかり考えている。を読んで、読者はこういった考えを持つ執刀医をどう思うか。最も同感する表現を下の文章から選べ。

(  ) 医師ならばいつも患者の側に立って患者の利益だけを考えるべきであって、自分の立場や利益のことを考えるなど医師失格である。
(  ) 患者のことがあるから結局自分の事を考えている、という表現になるのであって、医師の当然の、あるべき姿を現している。
(  ) 昨今の医療情勢が医者に厳しすぎるのであって、『結果が悪ければ裁判所に引きずり出されてボコボコにされる』という妄想がこの執刀医にも根ざしていて気の毒である。
(  ) 医師という職業であっても、一般社会から見た「己の姿」を常に意識する必要はあるので、誤解や偏見や同業者のいじめに会おうが、それはそれでプロフェッショナルの生きる道である。

平成21年8月28日 南淵明宏

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