 
      石野さえ子さん(仮名) 84歳 女性 大動脈弁置換術
遠藤医師が私に手渡したのは心臓だった。
        上行大動脈を縫い合わせた部分が目に飛び込んできた。
        この縫い目は見覚えがある。つい今しがた手術を終えたばかりの患者だ。ということは彼女は死んだのか」
        私は一瞬、呆然としたが、とにかく何かしなければならない。そうだ、その心臓を保管するホルマリンがどこにあるのか探さなければならない。私はしゃがんで流しの下にある戸棚の扉を開け、ホルマリンのビンを探し始めた。
        厭な夢だった。毎週のようにこんな夢を見る。
        だが今回は、バージョン・アップしていていつもとは違う。
        何故だろう?どうして夢の中の自分は惨めな失敗ばかりするのだろう。こういった夢で惨事をシュミレーションして、リアルワールドでのもしもの事態に備えているのだろうか?
        実は夢でみた世界は「一度起こった現実」であり、夢から目覚めたと思っている自分は、何かの力で「そんないやなことは起こらない」別の世界、つまりパラレルワールドに移動したのだろうか。
        今までこの種の夢が正夢であったためしはない。こんな夢を見た朝は、決まって手術は上手く行く。厄払いの効果はあるようだ。だが本当に厭なものだ。夢の中の自分は生きた心地がしない。
        
        仕事でとんでもないことが起こる。大失敗する。こんな夢を見るのは私だけではないようだ。
        新聞記者に聞いたら
        「時々ありますね。原稿を出そうと思ったらパソコンからデータが跡形もなく消えてしまってるんですよ。」
        病院に取材に来たカメラマンさんに聞いたら
        「撮影した後でカメラにフィルムが入っていなかったことに気がついて大変なことに、なんていう夢をよく見ます。」
        仕事でひどい目に会う夢を見るのはどんな職業にも通じることではないだろうか。その人がプロである証拠だと思う。
        なぜならプロはいつも失敗を思い切り怖がっているからだ。怖がりながら必ず正面から立ち向かっている人のことだからだ。
        矢玉を受け、満身創痍になりながら、それでも一歩一歩前に進むバカ正直な人。それがプロフェッショナルだと自負する。
        
        その日の手術も怖かった。
        84歳女性、石野さえ子(仮名)さんの大動脈弁置換術だ。体の小さい方である。本人曰く、入院して三日間で身長が4センチも縮んでさらに小さくなったらしい。そんなことはあり得ない。だが患者さんには逆らえないから「それは大変ですね。手術の後はきっと身長が伸びますよ」と説明した。
        体の小さな患者の人工弁置換手術で心配なのは、小さな心臓に会うサイズの人工弁があるかどうかだ。人工弁にはいろいろなサイズがあるが、アメリカで作られている。心臓のほうがあまりに小さいと、それにフィットする人工弁はないかもしれない。家のドアを取り替えようとして、まずドアを取り除いた後で、新しいドアを買ってきたのだが、ドアのサイズが大きすぎる場合、どうする。枠を広げて、新しいドアにあわすしかない。壁を壊しての大仕事になる。
        だがドアを取り外してからはじめてサイズを測る。そのときに「こんなに小さな人工弁はないぞ!」などということになったら、手術は終われない。
        石野さんは全身の動脈硬化も激しかった。脳や腸がだめになってしまうかも知れない。心配で仕方がなかった。ただいつものことだった。
        
        なんとか手術は上手くいった。石灰化した大動脈弁を取り去ると、しっかりとしたスペースができた。そこに21ミリのサイズの人工弁が上手い具合にスッポリと入った。
        手術の後も幸い何も起こらなかった。
        手術の翌日、すでに石野さんの声には張りがあった。
        もう大丈夫だ。
        イヤな夢でうなされた甲斐があった。
        このようにして、「いやな予感」はいつも当たらない。
        それが「プロ」なのだろう。
■設問
筆者の言う、「プロ」とは次のうち、どういう人のことか。
(  )  臆病な人。
(  )  「イヤな予感」の的中する人。
(  )  勇気のある人。
(  )  仕事で失敗する惨めな自分の夢を時々見る人。
        
平成21年8月28日 南淵明宏