トップ勇患列伝 > 勇患列伝 その14 Liebestod編
勇患列伝

イゾルデの夫 31歳 男性 心筋梗塞

医者をやっているせいで数多くのイゾルデに会う機会がある。
私の言うイゾルデとは、ワグナーの楽劇、「トリスタンとイゾルデ」の最終場面でアリア、「愛の死」を歌うイゾルデと同じ精神的エネルギーのレベルにある人、という意味だ。
この「愛の死」、Liebestodはワグナーと同じ年に生まれたキルケゴール、若き日にワグナーに傾倒したニーチェに言葉を尽くして賛美され、トーマス・マンに深く分析されている。また、他の多くの歴史的恋愛作品、例えば「ロミオとジュリエット」や「嵐が丘」といった作品の中で描かれた深遠な恋愛感情に並び評される、いわば歴史的、文学的、哲学的な「部分」である。
ただし、ワグナーの楽劇は最初から終わりまで一体化した「楽曲」であり、厳密にはアリアなどというハイライト・シーンはないはずである。だがワグナー自身がLiebestodだけを演奏会形式で演奏した史実もあるとされ、7分弱に凝縮された「部分」は劇の終焉であったり、イゾルデの存在や感情や表現するものであることを遥かに超越し、人間そのもの、いやまさに宇宙の中心に君臨する永遠の真実、ブラフマンを人間が垣間見た光景を奏でたものと言える。
「トリスタンとイゾルデ」は悲恋の物語ではある。
ローマ帝国の支配が及ばなくなって数百年経ったブリタニア。イングランドはアイルランドと戦闘状態にあった。
アイルランドの皇女、イゾルデは戦闘で傷ついた敵のイングランド兵、トリスタンを自分の許婚を殺めた相手とは知らずに、介抱し、秘伝の方法で快復させ、互いの素性を知らないまま、引き合う気持ちを隠したままトリスタンは帰国する。
両国和解なってイゾルデはイングランド王の后になることになった。
イゾルデをアイルランドに迎えに来た船に乗っていたのはほかならぬトリスタンであった。
船内で互いの運命を知るトリスタンとイゾルデ。死を持って苦悩を終わらせようと両者毒薬を飲むが、実はそれは召使の機転で全く別の薬にすりかえられていた。
以降は作品で堪能していただきたい。
さて、最終章、トリスタンは死ぬ。
トリスタンを「送る」イゾルデ。
その場面で歌われるのがLiebestodである。
いや、楽劇の最後の部分の歌のパートだけを抜粋したのがLiebstodである。
歌手はいわゆる主旋律、メロディーを最後まで歌わない。バイオリンが半音階の甘美な旋律が螺旋階段を登って行く。そしてきらびやかな豊穣の光の中が差し込む暖かい空間に誘い込まれる。
聞き終わってしばらくして、心の中に暖かく、頼もしい、なにか漲(みなぎ)るものが残されていることに気が付く。
「ロミオとジュリエット」や「アントニーとクレオパトラ」の悲壮感はない。
「嵐が丘」のようなせつなさもない。
愛する人を失っても、愛別離苦を集諦(じったい)する情景ではないのである。
イゾルデの精神はトリスタンを形作る細胞全部を昇華させた。そのありあまるエネルギーは、同時にイゾルデ自身を宇宙の絶対永遠の真理、ブラフマンと同化させて行く。
まさにイゾルデ自身の涅槃である。その光景に、観衆は圧倒され、励起される。
だから「トリスタンとイゾルデ」は悲劇ではない。愛する人を送ることで、永遠で強大なエネルギーを体の芯から沸き起こす、勇猛な精神を目覚めさせるという、女性ならば誰しも備わっている、宇宙を支配するまでの力強い本性を表現した楽劇だ。

ある朝、私は病院の駐車場に降り立った。明るい日差しの中、病院の今日一日が始まろうと言う雰囲気だ。そこへご遺体を搬送するお迎えのクルマが来た。
患者を乗せたストレッチャーが車に吸い込まれていく。それを見守る幼児が「パパ、パパ」と泣いている。ここにもイゾルデはいた。生まれて間もない子供を抱きかかえ、イゾルデは病院のスタッフに深々と頭を下げた。美しく、凛々しかった。

亡くなったのは数日前に心筋梗塞で運ばれてきた31歳の男性だった。
数週間前から調子が悪かったと言う。いくつかの医療機関にかかってみたが、胃炎だの肋間神経痛など言われていた。息苦しくなってたどり着いた病院で心筋梗塞と診断された。三本ある冠状動脈のすべてが完全に閉塞していた。やがて意識もなくなった。
夜中に大和成和病院に運ばれてきたときには心臓はほとんど停止していた。PCPSを使って体の循環を維持した。担当医らが手を尽くしたが心臓はよみがえらず、全身の臓器も持たなかった。

黒い車体が朝日を浴びて輝いている。
明るい朝日の中で、最愛の人の死によって止揚された精神を持って、イゾルデはこの瞬間から力強く生きていくだろう。
そう願いたい私には、そうとしか見えないのだろうか。
そんなことはない。
彼女の心のエネルギーは、宇宙全部の物質が生み出すのよりも大きいはずなのだから。
多くのイゾルデに囲まれて、私は日々仕事をさせてもらっている。


■設問
次の文章のうち、本文の主旨に合わないものはどれか。

(  ) イゾルデのように、真実の愛を捧げていれば、その愛する人の死によって、悲しみにふさぎ込んでしまう心ではなく、愛する人の永遠の愛を獲得し、さらに自らも昇華して気高い魂を獲得することができる。
(  ) 失っても悲しくはない愛とは与える愛(慈愛)であって、求める愛(渇愛)であれば失うことでその悲しみは計り知れない。イゾルデの愛はまさに慈愛であり、常に外向きのものである。
(  ) 愛とは心の奥底から沸きあがるエネルギーのベクトルであり、自らの存在そのものであると言えるから、「捧げる」だけではなく、自分本位な「求める愛」という要素も大きい。であるがゆえに、その気持ちが純粋で力強ければ自らの魂を浄化してしまうものとなる。
(  ) イゾルデのように一途に人を愛することで、生きている自分の目の前で起こる現実はすべて奇跡という位置付けでこの上ない価値を持って受け入れることができる。中でも愛する人の死はその最たるものである。

“Liebestod” von “Tristan und Isorde” Worte und Music: Richard Wagner.
Mild und leise wie er lächelt,
wie das Auge hold er öffnet,  
seht ihr's, Freunde? Säh't ihr's nicht?
Immer lichter wie er leuchtet,
sternumstrahlet hoch sich hebt?
Seht ihr's nicht? Wie das Herz ihm
mutig schwillt, voll und hehr
im Busen ihm quillt? Wie den Lippen,
wonnig mild, süsser Atem
sanft entweht: - Freunde! Seht!
Fühlt und seht ihr's nicht? Hör ich nur
diese Weise, die so wunder-
voll und leise, Wonne klagend,
alles sagend, mild versöhnend
aus ihm tönend, in mich dringet,
auf sich schwinget, hold erhallend um mich klinget?  
Heller schallend, mich umwallend, sind es Wellen sanfter Lüfte?
Sind es Wogen wonniger Düfte?
Wie sie schwellen, mich umrauschen, soll ich atmen, soll ich lauschen?
Soll ich schlürfen, untertauchen?
Süss in Düften mich verhauchen?
In dem wogenden Schwall, in dem tönenden Schall, in des Weltatems
wehendem All, ertrinken, versinken, unbewusst, höchste Lust!

平成21年9月2日 南淵明宏

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