トップ勇患列伝 > 勇患列伝 その16 不射之射編
勇患列伝

34歳 女性 先天性大動脈弁狭窄症

私はよく夢を見る。毎晩見ているかも知れない。
手術を執刀していて事件が起こり立ち往生する、と言う怖い夢も見る。
だが最近、ほとんど毎回決まってみる夢は水辺の風景だ。海であったり湖であったり。
私はいつも、波打ち際や湖畔を高いところから見下ろしている。
そして水際の水はいつも透き通っていて、水底がくっきりと見て取れる。そこにはおびただしい数の魚が泳いでいる。波打ち際でいろいろな種類の魚があちらこちらに向かって、泳ぎまわっている。中には巨大な魚もいる。うろこが威光を放っている。
モリなら岸辺からでも簡単に突けそうだ。手で捕まえることもできるかも知れない。
だがわたしはただ驚いて眺めている。目の前の豊穣に酔いしれているのだ。

「大学病院で小さいころからずっと言われ続けてきました。」
彼女は外来診察室で私にそう説明した。
彼女の大動脈弁は生まれつき変形している。
大動脈弁とは心臓のメイン・エンジンである左心室の出口にある弁である。
通常は透き通るほど薄い膜で、丈夫である。一日10万回の開閉に何年もじっと耐えている。
だが時に、彼女のように生まれつき変形している場合がある。
一日10万回も開閉し、また成長とともに周囲の様相も変わる。大動脈弁は患者の原罪を一身で背負うかのように、石のように固くなってきたり分厚くなって動きが鈍くなり、閉じることもなければ開くこともない、そんな状態になってくる。
そういうことだから、医者もしっかり観ていたのだろう。そして彼女はいつの日か
「もう手術を受けたほうがいい」
と医者から告げられる日が来ることを、自分の人生で逃れることができない通過儀礼として理解していたのだろう。
そしてついに、その日が来た。
「もう手術の時期ですね。覚悟してください。」
こう言われて彼女は納得した。だがどこで手術を受けるのか、かねてより考えがあった。
そういうことで彼女は私の元へやってきた。
超音波検査ではやはり彼女の大動脈弁は圧格差を生じている。左心室から拍出される血液の勢いが、大動脈を通過するときに勢いを減じられているのだ。だがその数値が示す状況は、まだたいしたことない程度だった。
「圧較差は34mmHgなんですが、これで手術をやらかすのは傷害行為です。」
私は世界中の心臓外科医もこんなふうに考えるだろうと、説明した。
「この数字が60を超えてくるようになったら手術です。それまで手術は受けるべきではありません。手術では万が一がありますから」
だれしもあせって手術を受けるべきではない。手術をしないのも心臓外科医であろう。
いずれ必ず手術を受けなければならない状態、というなら元気なうちに一刻も早く受けてしまおう。
こういった心境になる患者さんもいる。彼女のような大動脈弁の狭窄と石灰化、それに僧帽弁が逆流している患者ではでは、そういった「飼い殺し」のような気分を味わう患者さんもいることだろう。だが確実に、本当に年月が経てば必ず病変が強くなる、とは誰も断言できない、という事情もある。
「一生このままで大丈夫かもわかりませんよ」
彼女は戸惑った。
私はそんな彼女をもっと激しい荒海に放り出した。
「結婚されているんならお子さんをおつくりになったらどうですか?」
彼女は心臓病の自分など、子供は作れないもの、と思い込んでいたらしい。いやどうせそんなことだろうと、私は予想していた。大学病院の医者の考えそうな、医療万能、唯我独尊の医者アタマでは、生体弁で弁置換して、調子がよければ恩義せがましく妊娠を許可する。そしてそのあともう一度人工弁で弁置換する。生体弁はワーファリンが不要で妊娠出産が可能だ。だがまず100%、確実に弁は石灰化する。妊娠という神秘のドラマが母親の胎内で繰り広げられるとき、生体弁はその奇跡の余波を受け、石のように固くなってしまう。だから出産の後、硬くなった生体弁を取り替えなければならない。それぞれにリスクが伴う。最初の手術でも確実に成功するとは言い切れない。生体弁は本当に妊娠、出産で大丈夫なのか?
「大丈夫なはずですけどあなたの場合、特殊なんでしょうか、弁の機能がだめになっています。すぐに中絶して弁を取り替えましょう」
などと言う可能性はゼロではない。
それに再手術は一番リスクが高い。何度も水溜りをジャンプして飛び越えなければならない。水に落ちたら「うまく行ったはずなんですが・・残念でした・・・医療に絶対はありませんから」と予め用意された医者の言い訳で人生の幕切れとなりかねない。
人工弁より彼女が長年慣れ親しんできた彼女自身の弁のほうががんばってくれるのではないか。高度で最先端な医療より、彼女が天の意思で親から授かった、彼女の大動脈弁を信用するべきではないのか。そう思った。なぜなら私は心臓外科医だ。心臓手術の恐ろしさを知っている。人が人体に我が物顔で踏み入った時、天の怒りを買うことを実際に体験して知っている。そして天の与えたものの強さも知っている。
さて、妊娠中、本当に彼女の大動脈弁はもつのだろうか?
それは私にはわからない。ただもたないと断言する根拠もない。もつだろうという期待と、もつに決まっている、いや、もたない筈はないという一種の畏敬の念があった。600万年この地球上で死に物狂いで子孫を残し、生きながらえてきた頑強な種、人類への畏敬の念である。
「この程度の不都合で子供を生んでいる人はごまんといるはずだ。」
私はそう確信した。いややはり人類に対する畏敬の念だ。それにこの世の中は目に見える一つの要素で結果が規定されているのではない。高校野球に例えて言えば、剛速球ピッチャーのチームが敗れ、ハエの止まりそうなヘロヘロ球の変則左ピッチャーのチームが難なく勝ち進む。

あれから3年が経った。先日彼女は二人目の男の子を出産した。
大動脈弁の圧較差は妊娠中も全く変動しなかった。
高度で最先端の医療機関の教授様のご高説では、循環血液量が増加する妊娠後期には大動脈の圧較差は100を超えるに違いない、とのことだった。
だが幸なことに、特定機能病院の高度で最先端な医学理論を現実のリアル・ワールドは参考にしなかったようだ。次にも同じような幸が起こるかどうかわからない。
 「ただの偶然だよ。特別な例外だ。」とご講評賜ることだろう。だが高度で最先端な特定機能病院を一歩外に出たリアル・ワールドは、「ただの偶然と特別な例外」で満たされているのではないか。

私は心臓外科医であって、それしか能がない。にもかかわらず手術をしなかったことで彼女に感謝された。
列子湯問篇に弓の名人の話が紹介されている。「名人伝」と題されて中島敦が寓話として紹介した。邯鄲の街に住む弓の名人の話である。弓の技術を極めた名人は、弓を用いずして飛ぶ鳥を落としたという。
手術をしないで心臓を治す。そんなことができるはずはない。だが手術をしないと言う選択は、心臓外科医である私にしかできなかったと思う。

今日も夢の中で澄み切った水を魚が泳ぎまわっている。
私の海は、いつまで澄み切ったままでいてくれだろうか。

■設問
文中の太字傍線、手術をしないのも心臓外科医であろうをとはどういう意味か。下の説明で最も当てはまると思うものを選べ。

(  ) 心臓外科医は手術だけをやっているのではなく、心臓病についていろいろな角度から患者さんを診察し、判断を下すものだ。
(  ) 手術の怖さを一番理解し、それによって時には手術をしない方が患者の状況においてもっとも合理的であると判断できるのは心臓外科医しかいない。
(  ) 日本では手術をしないでも言ったもの勝ちで心臓外科医を自称し、あたかも心臓外科医であるように振舞うことが可能だ。
(  ) 手術をしてもしなくても、専門医試験に合格すればりっぱな心臓外科医だ。

平成21年12月12日 南淵明宏

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