トップ勇患列伝 > 勇患列伝 その17 山色渓声編
勇患列伝

七沢洋平さん(仮名) 男性 ミッド・キャブ、大動脈弁置換術

天職というものはあるものだ。私も心臓外科医が天職と言われている。
職業から受けるイメージがその人の実際の性格にぴったり当てはまっていることを言うのだと思う。あるとき国立オペラ劇場でドイツ語の先生と隣り合わせになった。大学教養のドイツ語の授業でお目にかかったドイツ語のセンセイで出来上がったイメージと寸分違わぬ方だった。勤勉実直で誠実できっちりされていて上品。話し方も穏やかで人と争うことなど一生ないことだろう。ドイツ語の先生が学会で一堂に会したなら、いったいどんな雰囲気だろう。開始時間も終了時間も一秒の狂いもなく、私語の一つもない。会議場ではガムをかんでいたり携帯電話を切り忘れた奴など絶対にいないに違いない。固定資産税を振り込むのを忘れていて滞納金を支払ったことなど生涯、絶対にない人たちだろう。
七沢さんは国会議員の秘書だった。
とある保守政党の有力議員の秘書を長年勤めておられたのだが、その大ボスが政界を引退した後も、七沢さんは今も「国会議員の秘書」ということで現役らしい。     
いや、本人はどう思っているか知れないが、とにかく私はそう思う。いや、そういうことにしている。彼の人格が、一億二千万総国民が想定する、有能な「国会議員の秘書」そのものの人間だからだ。はきはきして受け答えし、即断即決。行動もすばやい。ただしいやみは一切ない。「国会議員の秘書」を名乗る怪しい手合いも世の中にはいる。そういう輩に遭遇したことのある人は国会議員の秘書と聞いただけで、いい加減だ、トラの威を借るドブネズミ、などといった悪いイメージを思い起こすだろう。実は私もそういう経験をした。新潟県の自民党選出の国会議員秘書を名乗るK氏という人物から「患者を診てほしい。支援者から頼まれた」と言うことで、山田さん(仮名)と言う女性患者を紹介された。すると病院には「K氏に紹介されました」と梅沢さん(仮名)が来た。
梅沢さんは友人の北村さん(仮名)にK氏を紹介されたのだそうだ。
国会議員の秘書K氏に「山田さんではなく、梅沢さんが来ましたよ」
と連絡すると、「そうですか、実は私は渡辺さん(仮名)から頼まれたんですよ」
と返事が返ってきた。そのことを病院に来た梅沢さんに話すと
私にこの病院を紹介してくれた北村さんは実は高橋さん(仮名)なのです」
ということだった。
このK氏と名乗る「国会議員の秘書」の世界はなんともミステリアスな「不思議の国」だった。私などが対処できる人たちでは決してなかったのだ。それにしても議員さんがかわいそうでならない。秘書が勝手に世間に恥と不信をばらまいているのだから。
ところが七沢さんは違う。ウソ、ごまかし、言い逃れ、出まかせ、など絶対にない。
単なる想像だが、家族でレストランに出かけても食べるものを注文するときは0.2秒ぐらいで決めてしまうのだろう。「お父さん、もうちょっと考えさせてよ」などと、雰囲気を楽しもうとする奥さんの不満の声が聞こえてくる。
そんな性格の七沢さんだ。
実は七沢さんには10年前に冠状動脈バイパス手術をさせてもらった。小さなキズで行うミッドキャブだ。
 つないだ左内胸動脈はその後大量の血流を心臓の左前下行枝に供給し続け、大きく成長した。私の外来診察を半年に一度受けていたのだが、心臓の出口にある大動脈弁が年々硬くなってきた。大動脈弁狭窄症だ。近所のお医者さんにも同じことを言われ、七沢さんはそのことをしっかりと自覚していた。だが大動脈弁狭窄症では自覚症状がない。ある程度まで進行すると、突然死の確率が高くなる。七沢さんはその危険域に突入してしまった。
80歳を越えた元気な「国会議員の秘書」氏はこのまま元気で天寿を全うするだろう、と私は考えた。というより、そういうことにしたかった。七沢さんは上行大動脈も激しく石灰化し、石の管になっていたからだ。彼の大動脈弁の手術はリスクが高い。脳梗塞が起こる確率が高いと医学的に推認できる。もしそうなったらどこかの誰かに「人殺し」と私は糾弾される。怖い。いやだ。逃げたい。
それに七沢さんは人当たりのいい、好人物である。絶大な信頼をいただいている。そうなると余計に「情」が移る。もしものことがあったら。私も立ち直れない。ところで「情」とはなんだろう。艱難を前に立ちすくんで、見ないフリをして逃げ出すことだろうか。自分の家族ならどうするだろう。今までもっとリスクの高い患者を手術してきたではないか。
いろいろな考えが交錯した。
そして外来診察では七沢さんに「まあ、すこし弁が硬くなって雑音は聞こえるのですが、大丈夫でしょう」と説明していた。
真っ赤なウソである。
医者は日々罪を犯している。犯罪の常習者だ。(a)
犯した罪におびえる小心な犯罪者にとって本当のことを言うことは楽になることでもある。
「そうか彼は生まれながらの国会議員の秘書なんだ」
こんな考えが私を解放した。いや、私は解放されたかったので、自分で考えることを止め世の中の皆がするように「国会議員の秘書」さんの度量に頼ることにしたのだろう。
国会議員の秘書は目の前の問題はすぐに解決にかかる。決して放っては置かない。
七沢さんが私の立場なら
「ああ、わかりました。とにかくすぐに、やってみます」
こう来るはずだ。
四の五の考えないで「やらなければならないこと」はすぐに行動に移す人なのだ。
私は七沢さんの大動脈弁置換術に挑むことに決意した。
そして満を持して告げた。
「今まで様子を見てたんですが、やっぱり手術した方がいい状態です」
瞬時に相手の立場と意図を理解する。そんな七沢さんの返答は予想通りだった。
「ハイ、わかりました。いつですか」
「16日入院です」
「ハイ、わかりました」
七沢さんはいつもの笑顔でさっと立ち上がってきびすを返して診察室を出て行った。
だが眼の輝きはいつもと違っていた。瞳は底知れない、無限の果てからこちらに向けて光を放っている。私の胸の内の不安をしっかり見据えていたのだろう。
医者のポーカーフェイスなど、命のかかった状況にある患者には簡単に見透かされてしまうものだ。ましてや百戦錬磨、いろいろな境遇の人々を見てきた七沢氏である。彼の眼力をさえぎることなど、一介の凡人医師である私になどできるはずもない。
七沢氏の手術は無事成功した。幸運が味方したというべきか、これも七沢さんの運命だったのだろう。
手術中、やはり上行大動脈は石の管と化していて、何とか切開できた。横断した上行大動脈から心臓の側を覗き込んで大動脈弁を交換する。だがその後、切開した上行大動脈を糸で縫って閉じなければならないのだが、針が通らない。登山家が岩盤にハーケンを打つような作業だ。何とか工夫して上行大動脈をもとの「管」の状態に戻すことができた。
手術が終わって眼が覚めるのか心配した。手術が心臓外科医にとって本当に首尾よく進んだ場合でも、患者に惨劇が起こることがある。人間の運命は家族を被害者にし、心臓外科医を加害者に仕立て上げるのだ。
そして社会はその構図に眉をひそめ、弱い立場にある方を徹底的に打ちのめして立ち上がれないようにする。
そんな心配をよそに翌日から七沢さんは病棟の廊下を歩いた。
「順調ですよ」
「ハイ、わかってます」
間髪を入れない、いつもの七沢さんだ。
手術が終わった七沢さんも、やはり国会議員の秘書のままだった。
これからもずっとそうなのだろう。
日本から国会がなくなろうとも、国会議員がこの世から絶滅しようとも、いつまでも七沢さんは機動力抜群のりっぱな国会議員の秘書さんなのだ。(b)
    


■問題 上の文章を読んで以下の問いに答えよ。
1.下線部(a)の医者は日々罪を犯している。犯罪の常習者だ。とはどういう意味か。
 正しいと思うものを以下の文章から一つ選べ。
(  ) 新聞で強調して報道される犯罪者の職業では、警察官、教師、自衛官に並んで医師もその常連と言え、もともと犯罪者の資質に富んだ人材で構成されている職域だ。
(  ) 医師は力が及ばず不幸な結果となった患者の治療に対して常に「何かもっとよいことができなかったのか」と反省し、自らを罰し、生涯自分の過ちと認識して悔い、許しを請いながら過ごさなければならない。
(  ) 医師は人間であり毎日の臨床行為でいつも過ちを犯している犯罪の常習者だ。
(  ) 医療行為自体、神の意思にはむかう犯罪行為だ。こんなことをして人助けになったつもりでいる医師どもは社会が犯罪者として取り締まらなければならない。
(  ) 昨今の患者は結果に不満があるとすぐに医者を犯罪者に仕立て上げる。そういった社会からすると医者は犯罪の常習者だ。


2.下線部(b)の日本から国会がなくなろうとも、国会議員がこの国から絶滅しようとも、いつまでも七沢さんは機動力抜群のりっぱな国会議員の秘書さんなのだ。とはどういう意味か。 この文章には関係なく、一般的に正しいと思われるものも多く含まれているかもしれないが、この文章にそって正しいと思うものを以下の文章から一つ選べ。
(  ) 現政権は事に及んで優柔不断、支離滅裂、意味不明な政策を繰り返しており、着実に国家を破滅の道に導いていることは誰の眼にも明らかなので、いずれ国会議員の存在意義を、議場で使われる名札の製造業者を除いて、国民の中で誰もが見出すことができなくなり、よって国会議員はこの国から根絶されるだろう。
(  ) 七沢さんは国会議員の秘書さんと言う職業が骨の髄まで染み付いた人だ。あらゆる状況でも国会議員の秘書さんなのだ。その調子でいつまでも元気で長生きされることだろう。
(  ) 最近の若い国会議員の秘書は議員と同様、いい加減で常識がなく勉強しないし人の話も聞かないアホばかりなので七沢さんのような人はどこでも通用するだろう。
(  ) アホな国会議員どもなどいてもいなくてもどうせずるがしこい奸僚が行政を支配し、すき放題に税金を自分たちのために使うだろう。絶滅危惧政党の古株の腕利き秘書さんは唯一対抗できる勢力なのだからいつまでもがんばって欲しい。
(  ) 国会議員の秘書と言う世界に一度入り込むと、永久にその世界の人になってしまいます。

平成22年9月22日 南淵明宏

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