トップ勇患列伝 > 勇患列伝 その18 意馬心猿編
勇患列伝

三つ葉 葵さん(仮名) 37歳 女性 僧帽弁閉鎖不全症、僧帽弁形成術

「明日三時に新患?困るなぁ・・・それじゃあ早めに来てもらおう」
翌日は午後から私用があった。母を病院に連れて行く予定があったのだ。私の外来診察が午後3時から予定されていた三つ葉さんの家に電話して、もっと早めに病院に来てもらうことにした。三つ葉さんは僧帽弁閉鎖不全症ということで開業医さんから詳しく検査するよう勧められたということだった。
「あのお、大和成和病院の南淵ですが・・・」
彼女は自宅にいた。
要件を告げると彼女は快く承知してくれた。
だが要件だけ告げて電話を切るのはあまりに芸がない。
患者さんとコミュニケーションを図ろうとした。
患者さんは不安を抱えている。
心臓外科医である私の外来診察を受けようとする患者は例外なく、「あなたは心臓の手術が必要かも知れない」などと内科医から告げられている。
心臓手術は誰にとっても怖い。だから心臓外科医と言う人間にも恐怖を抱いていることだろう。だがそんな心臓外科医が、ひょっとしたら専門家の目で、「こんな状態では手術なんか必要ないですよ」と言い放つ可能性を期待しているに違いない。地獄の閻魔様だ。そんな輩からいきなり電話があったのだから驚いてもいるだろう。
気持ちをやわらげるよう、話してみることにした。
「私のところにあなたを診察した内科の先生から紹介状をいただいていますが、大した事なさそうですね。」
私は媚びるつもりはなく、本当に紹介状の文面からそう読み取った。
 
だが現実は違った。
翌日三つ葉さんは私の外来診察の前に超音波検査を受けたのだが、僧帽弁の逆流は重度だった。心臓は拍動ごとに激しい雑音を発するだけでなく、小躍りして胸壁面を揺らしている。彼女には僧帽弁形成手術が必要だ。
前日の私の言葉を正反対に翻さなければならない。彼女はショックを受けるだろう。
「なーんだ。こんなの手術する必要などないですよ」
と私から言われる期待を充満させ、冷たい雨の中、彼女は病院にやって来たに違いない。だが告げなければならない。
逆流は相当に酷く、心臓も相当にがんばっています。なるべく早く手術を受けた方がいい状態です。」
彼女は気丈に私の眼をしっかり見据えていた。現実を受け止めたようだ。
その後、私は説明すべきことを説明した。彼女の耳には入っていないだろうと感じながらも。それでも僧帽弁形成術について通り一遍、説明した。手術のリスクも説明した。
「手術はどこで誰に受けようともかまいません。よーく悩んで決めてください」
患者が悩むのは当たり前だと私は思っている。そのことを教えてあげるつもりで私はいつもこの台詞を使う。すると患者は悩まなくなる。
彼女はすべてを制御した。心の中で荒れ狂う波しぶき、揺れ動く大地、降り注ぐ豪雨。すべてを自分の支配下においた。そして私に正面から対峙した。
 「センセイに手術をお願いします」
彼女はいい意味で、私の手練手管に絡みとられた。
外は冷たい雨が降っていた。
「私が今まで手術させていただいた患者さんは皆さん例外なく強者でした。自分で心臓病という理不尽を乗り越えたのです。あなたも絶対大丈夫です。自分の中に、この運命を乗り切る力を十分に持っているはずです」
それは私がいつも実感していることだが、もちろん励ましの言葉でもあった。
三つ葉さんはうなずいた。
「子供が5歳と7歳です。主人と相談して何時にするか決めてきます。」
彼女は終始冷静で、はっきりとしゃべった。
私のように、普段から無駄口をたたいているような人ではないのだろう。

そのままお帰りいただくのに少し気が引けた。
病院のホールで帰り際の彼女を見つけた。そしてもう一度言葉をかけた。

「あなたはゼッタイに大丈夫ですから」
これは紛れもないウソである。
心臓の手術では万が一が起こりえる。命にかかわる事象の発生率は一般消化器外科手術の6000倍とも言われている。手術でもし万が一何かあったら私はウソをついたことになる。しっかりとリスクを説明していないことになる。いいことばかりをあげつらい、患者をはめたことになる。
だが私は最近、詐欺師になることを決めた。
いつのころからか、50歳を過ぎたころからだろうか、手術を控えた患者さんには「大丈夫ですよ」を連発することにした。自分が患者なら、そう言ってもらいたいからだ。
冷たい雨の中、彼女は帰って行った。
そして数日後、彼女は電話で手術の日程を告げてきた。
    
手術は難なく終わった。余分な部分を切り離し、縫い縮め、人工腱策で固定した僧帽弁はいつになくしっかりとした形に整った。完璧な出来映えだ。
彼女はどんな顔をしてこの事実を受け入れるだろう。
やはり冷静に「そうですか。やはり計画通りで逆流は止まったんですね」
と合理的に理解し、その論理の骨格に支えられながら喜びを感じるだろうか。あるいは鬱積していた不安が一瞬で昇華し、同時にそれに打ち勝った自分を慈しむ感情がわきあがり、涙するだろうか。彼女の静かな戦いは終わった。敵を見据え、正面攻撃を敢行した。そして主力を打ちのめし、勝利した。
彼女の運命も使命も、すべては彼女の支配下におかれている。
冷静な二女の母である彼女の次の課題は退院して帰宅した日の夕食を何にするか、だろう。

平成22年11月7日 南淵明宏

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