トップ勇患列伝 > 勇患列伝 その19 虚空蔵求聞編
勇患列伝

伊達 公子さん(仮名) 70歳 女性 大動脈弁置換術後僧帽弁置換術

上行大動脈に大きな穴が開いた。
「患者は助からない」
手術室の誰もがそう思った。
患者は70代の女性。北日本の大学病院からの紹介患者だ。
彼女は数年前、心臓の大動脈弁を人工弁で取り換える手術を受けていた。
もう一つの左心室の入り口にある僧帽弁も人工弁に換えることになった。
彼女にとって二回目の心臓手術だ。
ふつう、二回目の手術は心臓がまわりの臓器にくっついている。患者の体質や最初の手術の巧拙にもよるが、大概はひどく強固にくっついている。どこからが心臓か、どこまでが周囲の臓器なのか、わからない。はさみで一ミリずつ慎重に慎重に切断しながら、掘り進んで、心臓の形を作っていく。それが二回目の心臓の手術だ。
時に心臓を破ってしまう。
「こんなはずじゃあ・・・」と文句を言っても穴が開いた心臓から吹き出る大量の出血は止まらない。
穴に指を突っ込んだり、何とか出血をコントロールし、事なきを得る。
だが伊達さんの場合は違った。
手術の前にその危険性は十分に分かっていた。
CTスキャンで上行大動脈が胸骨に接合している。
上行大動脈の壁が胸骨と一体化しているようにも見える。
「何とかなるだろう」
と考えていた。いやそう希望していたに過ぎない。
現実も上行大動脈と胸骨は一体化していた。
胸骨を開けたら上行大動脈が破れた。
何とかなるはずの希望は専門家としてあるまじき荒唐無稽な夢想に過ぎなかったのだ。
「患者は助からない。」
誰しもがそう思った。
幸い、既に人工心肺が取り付けてあった。
大腿部の動脈から血液が送れる。
大きな穴を手で押さえ、とにかく体温を冷やすことにした。
どんどん出血する。その出血を人工心肺にもどし、体温は下がりきった。
そこで人工心肺を完全に停止する。
超低体温循環停止の状態だ。この状態で脳は30分程度、障害を受けないとされている。
すっかり体は「血の気を失う」ことになる。
その間に破れた上行大動脈を修復してしまおうというのだ。
目の前にぽっかりと開いた穴があった。長さ3センチ、幅1センチ。
「もうどうとでもなれ。なるようにしかならない」
そこで私に何かがのりうつった。憑依されたのだ。
その瞬間、心の中は空っぽになった。
あせりも感じない、昂ぶりも無い。ただ飄々と手が動いた。
穴は閉じられ今度は目的とする心臓弁の交換だ。
心臓の癒着は何時に無く激しく、唯一形状を確認できる右心房から心臓に進入して心房中隔に窓を開け、そこから僧帽弁を交換した。
ふつうはやらない方法だ。いや、視野が十分でないからできないアプローチだ。それに前回、大動脈弁に人工弁が植えられている。そのような状態では、どのようにアプローチしても僧帽弁を視野に入れるのは難しいとされている。
だが手術は淡々と進んだ。なぜか僧帽弁はしっかり見えた。
そして終わった。
心臓が動き出し、胸が閉じられた。
患者はICUに収容された。
その後の経過も順調だった。二時間して患者は目を覚ました。
一番心配した脳の障害も無かった。
私を何者かが支配してくれたおかげで患者は助かった。
あの時私が「家族になんて説明しよう・・・」「何が何でも助けるんだ・・・」
高揚して上気した自分が懇親の力で立ち向かっていたら、結果はこうはならなかった気がする。
「いかなる神の下であっても、私の魂と運命の支配者は私自身なのだ」
ネルソン・マンデラ氏は27年間の獄中生活の中、絶望の淵に追い込まれた自分をこの言葉で鼓舞したという。
だが究極の惨事に見舞われた心臓手術では、執刀医はその運命を支配できない。魂を開放し、何かに支配してもらう。そんな方便で切り抜けるしかなかった。
そんな哀れな心臓外科医を、いずれかの、どこかしらの神は決して放って置かない。

平成22年11月9日 南淵明宏

一覧に戻る